若者を中心に言葉が乱れているとのこと。いつの時代と比べての話かと考えると、そのような論を唱える人の子供時代と比べてだろう。数十年前と比べて、衣食住、全ての様式が変化した現在、言語だけ全く変わらない。と言うのには多少なりとも無理がある。
状況に合わせて様々に変化していく事は文化であり、ごく自然な現象と思う訳である。
ただ、混乱されては困るのが、敬語の使用だ。
目上の人に対して友達のような言葉遣いをする若者が多いと聞くが、これは決して許されない。
丁寧な言葉は、相手を大切に思っていれば自然と出てくるものであるのだから。
日本語の乱れとは、規範とされる日本語と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。乱れは、なくなることもあれば定着するものもあるが、その受容の過渡的段階で特に盛んに取りざたされる。
正しいとされている日本語も、古来は今とは違った意味である場合が多数あり、昨今言われている日本語の乱れというのはやぼなことと考える意見もある。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。
「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」と綴られるものは、「ら」の文字を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれることがある。
ら抜き言葉を避けようとするあまり、本来不要な「ら」を付け足してしまうもの。たとえば五段動詞「しゃべる」に対応する可能表現を「しゃべれる」とするは五段動詞「書く」に対する可能表現を「書ける」とするのと同じであってら抜き言葉ではないが、末尾の「れる」がら抜き言葉の語形と共通していることからこれをら抜き言葉と誤認し余分な「ら」を付け足して「しゃべられる」としてしまう場合がそれである。ただし、単に必要な「ら」を入れているものを含めて、ら抜きでない言い方全般を ら入れ言葉と称することもある。
「〜している(してゐる)」のような言葉を「〜してる」と表現するのが「い(ゐ)抜き言葉」である。実際に話される言葉としては「い」の発音されない傾向にあり、これを反映して文学作品では戦前からい抜き言葉が見られた。昨今ではビジネス文書などにも見かけられるようになり、問題視する者がいる。